『
国家の品格』から考えたことを「
WEB進化で変わる未来予想図」さんに呼応してエントリーを書いてみようと思う。
国家の品格の〜第3章 自由、平等、民主主義を疑う〜の中に「マスコミが第一権力に」という単元があります。
<前略>
民主主義の本質は主権在民ですが、主権在民とは「世論がすべて」ということです。そして、国民の判断材料はほぼマスコミだけですから、事実上、世論とはマスコミです。言い方を変えると、日本やアメリカにおいては、マスコミが第一権力になっているということです。
<中略>
政治においては「ポピュリズム」ということがよく言われますが、民主主義国家でこれだけマスコミが発達すれば、行政がポピュリズムに流れるのはほぼ必然でしょう。立法も同じです。立法を担っているのは政治家で、その政治家を選ぶのは国民なのですから。
「世論がすべて」という一元論が正しいと思いませんが、実際にそういった傾向は否定できません。
前回の衆議院選挙(小泉自民圧勝)の影にはマスコミだけでなく、ブロガーといった新しい表現者たちが活躍したことも事実です。
ここで思うことは、「オピニオンリーダーの台頭」といった言葉です。
例えば「政治がものを言う」ことの実質が「マスコミがものを言う」に近かったりする現実。数名のアルファブロガーといわれる人々が、桁外れのアクセスを弾き出し、かつそこで設定された議題がて新しい波が起こしている現実。
将来、世論というものが実際の選挙レベルまで落とし込んだリアリティあふれるものになると仮定しても、キーワードは世論という結果よりも、この結果を生み出すオピニオンリーダーの傾向が重要視されるのではないでしょうか。
これは政治だけの話にとどまらず、市場競争全体に浸透します。商品の売れ行き、番組の視聴率など、オピニオンリーダーの影響は幅広くなります。
改めて整理すると以下の2つについてとても気になるわけです。
1.オピニオンリーダー(マスコミやブロガー)と人々(全体)の温度差
2.オピニオンリーダーはど素人である可能性も高い
いくらブログの時代到来と騒いでも、結局表現者としてブログを運営するのは一握りです。最近の流れとしては、ブログにエントリーされた意見があたかも民衆の総意に近いと捉える傾向あると思います。(例えば世間のブログの統計=ユーザー全員の意見の反映。)この傾向がそのまま悪いとか、この考え方は間違っているとは思いません。ただ、何か寒気を感じるわけです。
「2ちゃんねる」という巨大掲示板では情報の真偽を閲覧者が判断するのがあたりまえです。しかしながら、この「2ちゃんねるの文化」がインターネットの世界にそのままスライドすると、何か落ち着かなくなる。何せインターネットという言葉がわからないでMixiをやりだす人が増えているわけで、今後もそういった方々が増幅するだろうからだ。
何はともあれ、自分としての興味はブロガーとユーザーの温度差が、コミュニティという結びつきによってどう変化するのかを注視しています。「ブロガーのエントリー」≠「コミュニティの総意」という前提をもとに、オピニオンの移り変わりを気をつけて観察していきたいと考えています。
なお、この国家の品格の〜第3章 自由、平等、民主主義を疑う〜の中には、他にもジョン・ロックとホッブスの対比であったり、「国民が戦争を望む」といった興味深い考察があります。そちらも参照していただきたいです。
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